【生月島】キリシタンの楽園から鯨バブルの島へ
遣唐使がほっと一息ついた 長崎いきつき島
生月島という島をご存じでしょうか。
九州本土の西北端に浮かぶ平戸島の、さらにその西に浮かぶ小さな島です。
島の大きさは南北に10キロ、東西に2キロ。
人口6,000人の細長い島です。
唐や朝鮮から帰ってきた船がこの島をみつけると、やっと帰ってきたぞ~!と一息ついたことから”いきつき島”と呼ばれるようになったそうです。
戦国時代になると、ここはキリシタンの島として華やかな時代を迎えます。
ラテン語の聖歌を歌う子供たち。
おらしょを一心に唱える母親。
天体の動きを学ぶ若者。
ヴィオラを奏でる少年たち。
ほぼ全ての島民がイエズス会の信徒で、教会がいくつも建てられ、毎夜、仕事を終えた信徒が集まったそうです。
丘の上に立てられた巨大な十字架の完成を祝うミサには、花輪を頭にかぶった1000名もの信徒が列をなして行進し、「ここがパライソ(天国)なのではないか!」と感激したことを書き残している宣教師もいます。
長崎の島というと五島列島が人気ですが、今回はこの物語多き小さな島をご紹介しようと思います。
楽園を作ったキリシタンの祖、籠手田安経
この辺りは松浦党の地です。
昔は支那や朝鮮、あるいは満州にいた女真族などの盗賊がこの辺りを襲い、家畜だけでなく奴隷にするため人間も連れ去りました。
京都から遠いため朝廷には頼れず、やむにやまれず腕の強い者が集まり、次第に武士団となったのが、松浦党のはじまりです。
戦国時代になり、松浦党の中で勝ち抜いた家が松浦藩の藩主となりました。
この松浦藩、したたかに明治まで大名として生き抜きます。
初期の松浦藩で筆頭家老をつとめたのが籠手田家(こてだ)でした。
南蛮貿易が始まり、ザビエルが日本にやってきた頃、松浦家は大砲や鉄砲をポルトガルから買おうと交渉します。
ポルトガルの大砲を売る条件は、イエズス会に入れ、でした。
当主の松浦隆信は、自分の代わりに家臣の籠手田安経(こてだやすつね)とその弟壱部勘解由(いちぶかげゆ)を入信させます。
この入信をきっかけに、籠手田家、壱部家の領地で一斉改宗が始まりました。
西洋医学の知識がある宣教師も多くいたため、生き返った!動けるようになった!という噂も広まり、次第に領地以外でも信徒が増えていきます。
それがこの島がキリシタンで溢れた理由です。
秀吉によるキリシタン弾圧
戦国大名が激しく求めたのが鉄砲でした。
種子島に到来した鉄砲は今の金額でひとつ5千万円もしたため、日本はすぐに鉄砲作りに励みます。
それほど時間がかからず日本人は素晴らしい鉄砲を完成させますが、火薬は手に入りませんでした。
火薬一樽につき、50人
火薬と交換するため、多くの人間が奴隷として船に詰め込まれ、ポルトガル、インド、マラッカ、南米・・・へと売られてきました。
綺麗好きで真面目に働く日本人は高く売れたそうです。
このことを知った秀吉は激怒し、すぐさまキリシタン禁止令を出します。
この時は、宣教師だけ日本を出ていけ、民の信仰は自由、といったものでした。
通達がでて宣教師が集まったのがこの生月島です。
籠手田家の領地にいることが安心だったわけです。
しかし、時が経つにつれ籠手田家に対しても弾圧が強くなり、安経の息子、安一は領民とともに船で出奔します。
壱部家も運命をともにしました。
六百人もの島民が一晩で消えたそうです。
向かった先は長崎。外海地区に住んだと言われています。
領民を簡単に裏切ったキリシタン領主が多いなか、両家は最後まで信仰を守り、民と共に生きたのです。
捕鯨バブル到来
家康の死後、キリスト教禁止とともに鎖国が始まります。
平戸はもともとポルトガルだけでなく、中国や朝鮮、南方の島々といった世界の商人が集まる島でした。
その華やかさに西の都とまで呼ばれています。
鎖国となり、海上貿易で生きてきた平戸、生月島は一気に寂れていきます。
この辺りの島々は平地が少ないため、農業には適していません。
この不況を救ったのが捕鯨でした。
牛や犬、鶏などの肉食を仏教が禁止していたため、たんぱく源としてクジラが重宝されている時代でした。
鯨一つ捕れば七浦潤う
クジラ一頭を捕まえれば、腹を満たしてくれるだけでなく、七つの浦に住む人々の懐も潤わせてくれる、という諺(ことわざ)です。
生月島にクジラが近づいてくると、男たちが乗った何艘もの船ででていきます。
捕縛は命がけの作業でした。
捕まえたとしても、体が大きいので島に引き上げるのも一苦労。
島に上がったクジラは納屋場でさばかれ、老若男女が繰り出し、加工していきます。
皮をはぎ、赤身の肉をとり、油をとる。
ヒゲは釣り竿に、余った部位は肥料に、と余すことなく活用されました。
捕鯨の中心となった益冨家は年間200頭のクジラを捕獲して、現在の額にして20億円もの利益を出していたそうです。
まさにバブル到来。
落ち込んでいた松浦藩の財政を捕鯨が支えていきます。
生月島の捕鯨を描いた小説
鯨神(宇能鴻一郎)
捕鯨時代の生月島がリアルに描かれている芥川賞をとった小説です。
古本しかないので、私は近くの図書館で借りましたが、一気読みできるとても面白い作品でした。
映画にもなっているようですね↓
生月島の観光スポット
訪れて驚いたのは、海辺の側に立つ家々のくっつき度合です。
細い道の両側にぴっちり隣接して建てられています。
平地が少なく、海から糧を得てきた島ならではです。
生月町博物館 島の館
この博物館、めちゃめちゃ面白いです。
隠れキリシタンや捕鯨時代の資料を展示していますが、ジオラマが素晴らしく、子供も大人も楽しめる施設となっています。
HP https://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/
クジラの益冨家居宅跡
中には入れず、外から眺めるだけになります。
益冨家は最盛期(19世紀前半)には2000人もの従業員を雇い、生月島、壱岐、五島などで5つの鯨組を営んでいたそうです。
海の見渡せる高台に建っているので、島の街並みを楽しみながら訪れることができます。
黒瀬の辻殉教地 ガスパル様
籠手田の家臣、ガスパル西玄可が殉教した場所です。
彼は島の総奉行でした。
島民が出奔した際、一緒には島を出ず、残った信徒を支えました。
しかし処刑が決まり、本人の希望で大きな十字架があったこの地で妻、長男とともに殉教しています。
トマス西の記念碑がある山田教会
レンガ造りの教会です。山田集落にありますが、戦国時代にはこの集落だけで600人ほどのキリシタンがいたそうです。
ここにトマス西神父の記念碑が建てられています。
彼はガスパル西玄可の次男です。
マニラに渡り日本人初の司祭となりましたが、長崎に潜入し、最後は処刑されています。
絶景!生月サンセットウエイ
自動車のCMにも使われる絶景ルートです。
約10キロ。生月大島を渡るとすぐ左に始まりますが、信号もなく、ひたすら海岸沿いを走ることができます。
時間が合えば素晴らしい夕焼けを見ることができます。
最果ての大バエ灯台
島の最北端にある灯台で、360度の大海原を鑑賞できます。
天気が良ければ、隣の平戸島だけでなく壱岐・対馬など周りの島々も眺められます。
サンセットウエイから望む塩俵の断崖
生月島の西側には断崖が多く続きますが、塩俵の断崖は柱状節理という地質構造を見ることができます。
距離にして約500m、高さ約20m。
柱がいくつも立っているように見える圧巻の断崖です。
聖地と名高い釣り場
生月大橋を渡りながら見えるのは、大小の島々とたくさんの船。
ゆるやかな湾が船と魚を優しく迎えいれています。
生月島は釣りのメッカで、舘浦漁港、壱部浦港、大バエなどのスポットがあり、とびうお、シイラ、あじ、アオリイカなど様々な魚が釣れます。
車以外で生月島観光する場合のおススメ
私は初回は土地勘がないので周遊バスと観光タクシーを利用し、2度目にレンタカーで好きなスポットをゆっくり観て回りました。
周遊観光バス
平戸の中心地にある平戸観光協会で周遊観光バスを出しています。
2千円という格安の料金で、3時間半かけて平戸、生月の観光名所をツアーガイドさんが詳しく説明してくれます。
観光タクシー
地元のタクシー会社がやっている観光案内もおススメです。平戸観光協会を通すと高くなるので、直接タクシー会社に申し込むといいそうです。
まとめ
いかがでしたか?
生月島は気持ちが良い島で、私は遠いのにも関わらず2度も行ってしましました('◇')ゞ
隣の平戸もとてもエキサイティングな島なので、両島かねての観光をおススメします。